松平西福寺由来

当寺は、東光山良雲院松平西福寺と称し、開基は、天正二年徳川家康公によるものであります。開山上人は、真蓮社貞誉素道房願故了伝大和尚と申され、上人は三河の国額田郡麻生村に生まれ、幼い頃同村の阿弥陀寺の弟子となり、後に下総国の大厳寺の安誉虎角上人に学び、諸国遍歴後故郷の岡崎の大樹寺に留まりました。時に永禄三年徳川家康公が今川義元の人質になっていた十九歳の時、桶狭間の戦いで、義元は織田信長の急襲で、滅ぼされ家康も敗戦の難を菩提寺の大樹寺に逃れ、時はこれまでと先祖の墓前にて切腹しょうとした時、大樹寺の住持登誉上人と了伝和尚に戒められ自害を留めたと言われています。以後了伝和尚は、家康公にお付きし、信頼いよいよ厚く家康公は、天正二年静岡市に了伝和尚の為に一寺を建立し西福寺と号し上人を迎えました。当時の西福寺は、三百石の石高を受け住職は大名待遇を成されていたと言われております。後に家康公の命を受け慶長十三年二代将軍秀忠公が江戸駿河台に松平西福寺を創建し、次いで寛永十五年現在の地に移つりましたが、当時は境内地が約七千坪有り西福寺の末寺として七ケ寺の別院、別寺があると共に学寮(僧侶を育成する為の学問所)などが有りました。大正年間に入り東京市都市計画により境内も今の如く狭くなり、また関東大震災及び大東亜戦争と二度の災禍に見舞われ本堂、庫裡他、悉く焼失しましたが、平成四年に新本堂が建立され現在に至っております。

宗派 浄土宗

宗祖 法然上人

本尊 阿弥陀如来

称名 南無阿弥陀仏

旧跡 勝川春章の墓(葛飾北斎の師匠)江戸時代の浮世絵師・彰義隊(百三十二名)の墓